「キュウリなんてなくなればいいのに」
私はキュウリが大嫌いです。同じ瓜でも、メロン・スイカ・カボチャなどは平気なのですが、キュウリだけはあの独特の匂いがダメです。キャベツと一緒に千切りにしても、もっと細かくしても一口で気づいてしまいます。ポテトサラダやサンドイッチに入っていると、ポテトやパンがキュウリと接している面にキュウリ臭が移り、そこも食べたくなくなります。しかも、栄養も少ないし、他の野菜のビタミンを破壊するという始末で、好んで食べる理由どころか、我慢して食べる理由もありません。そんなキュウリですが、本当にこの世からなくなるべきか考えてみます。
「キュウリなんてなくなればいいのに」の命題
キュウリが野生に存在しているのは構わなくて、自分の口に入るのがイヤなだけなので、
- キュウリが食用として栽培されなければ幸せな時間が増える
- キュウリは食べる価値がない
とします。
「キュウリなんてなくなればいいのに」の対偶
対偶はシンプルに
- 幸せな時間が増えなければ、キュウリが食用として栽培されている
- 食べる価値があるならキュウリではない
これは、言っていることに無茶がある感じが強く、かなり分が悪いですね。
「キュウリなんてなくなればいいのに」の考察
キュウリを栽培するのは需要があるからで、需要がある理由が分かりません。栄養なら他の野菜、おいしさでも他の野菜、値段は…安い…だからキュウリ?そうだとすれば、栄養豊富でおいしい野菜を安く栽培できれば、キュウリの需要がなくなり栽培されなくなるはずです。
でも、これだけ農業が進化しても淘汰されないということは、キュウリは安く安定供給しやすいのでしょう。生産者も消費者も一定の妥協のもとにキュウリを選んでいるのでしょう。
「キュウリなんてなくなればいいのに」の結論
キュウリの存在は妥協に支えられているので、妥協する事の是非により真偽を決めたいと思います。
→次回に続く
以上